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あいすまん

あいすまん

沖縄現代詩史論(前)

沖縄現代詩史 
―世代交代が行われなかったのはなぜか―
      
               宮城隆尋


目次
序論  県内詩壇の高齢化
 ―『沖縄文芸年鑑』より―
第一章 「琉球詩壇」
 ―発表の場としての新聞・雑誌―
     ①「琉球詩壇」
     ②県外郷土紙における詩の投稿欄
     ③初期「新沖縄文学」
     第一章のまとめ
第二章 『LyricJungle』と『沖国大文学』
 ―新人発掘における同人詩誌の可能性―
①登竜門としての詩誌
    ―一般同人詩誌における投稿欄
②新人による詩誌
   ―学生同人誌
     第二章のまとめ
第三章 山之口貘賞
    ―新人の登竜門としての賞の機能―
     ①特定の世代への偏り
      ―受賞者の高齢化
     ②「詩集」というハードル
   ―山之口貘賞応募規定
     第三章のまとめ
終論  県内詩壇における新人発掘という観点からの提案
     ①投稿欄に関する提案
     (1)新聞における投稿欄
     (2)同人詩誌における投稿欄
     ②賞に関する提案
     (1)新人賞の設置
     (2)山之口貘賞応募規定の改定

序論
沖縄県内詩壇の高齢化
 ―『沖縄文芸年鑑』より―

 『沖縄文芸年鑑2001』の「沖縄・奄美文芸関係者人名録」(注一)によると、「活動分野」の項目に「詩」とある者は総勢七〇名。それらを年齢(注二)別に振り分けてみると、最も多いのが五〇歳代の二七名(約三九%)で、以下六〇代の二二名(約三一%)、七〇代の一一名(約一六%)、八〇代の四名(約六%)、四〇代の三名(約四%)、二〇代と九〇代の一名(約一%)年齢表記の無いもの一名、となっている。社会一般で「高齢者」とされる六五歳以上は二四名で、全体の三分の一を超え、全体の平均年齢は約六〇歳であり、沖縄の詩壇は高齢社会であるということがいえる。
 対し「小説」とある者には、現在三三歳の池上永一、三九歳の照井裕、二七歳のてふてふPなど若手がおり、芥川賞を受賞した目取真俊でさえまだ四三歳である。俳句の分野でも野ざらし延男ら高校教諭の俳人による底辺の拡大がなされている。
 沖縄の詩壇に新たな書き手が登場しにくくなった要因はどこにあるのか。投稿欄など、詩壇の外側に対して開かれた、新人の登竜門となり得るシステムの面から検証する。


第一章
「琉球詩壇」 ―発表の場としての新聞―

①「琉球新報」でのあしみね・えいいち選「琉球詩壇」

 現在の新聞紙上での投稿欄は、県内でも「琉球新報」紙上での「琉球俳壇」や「琉球歌壇」、「沖縄タイムス」紙上での「タイムス俳壇」や「タイムス歌壇」といったふうに、俳句や短歌においては毎月連載されている。「タイムス狂歌」(「沖縄タイムス」)や「ウチナー川柳」(「沖縄タイムス」)などの欄もある。しかし詩においては「琉球詩壇」(「琉球新報」)のみで、しかもそれは投稿欄ではなく山之口貘賞受賞者の詩をリレー形式で掲載するというものだ。しかし、以前はそうではなく、詩の投稿も受け付けていた。
 天願俊貞、船越義彰、伊良波長哲らと一九五二年に詩の同人「珊瑚礁グループ」を組織し沖縄戦後詩の出発を支えたあしみね・えいいちは、一九六五年から「琉球新報」紙上で連載を開始した詩の投稿欄「琉球詩壇」の選者を務めた。紙上で広く募って受け付けた詩作品を月毎に選考し、毎月五篇程度を掲載、選評も各作品に付された。ここではのちに第一回山之口貘賞受賞者となる岸本マチ子が山田都子の名前で幾度も掲載されているほか、同様に貘賞を受賞することになる安里正俊や伊良波盛雄、山口恒治、同人誌『?乱』で活動しのちに詩集を発行する河合民子も翔の名前で登場、現在「沖縄詩人会議」の『縄』で活動する名護宏英なども見出された。また、選評において〈作者は新人―十八歳の高校生とのことである〉(注三)と付された伊良皆恵利子のように、中山二郎、大城美恵子、藤井章子、沢岻裕らが若手の新人であることが明記されている。彼らは以後詩壇へ定着したわけではないが、詩壇の外側で詩作していた彼らの詩が新聞紙上で陽の目を見たことは「琉球詩壇」が新人の詩を拾い、詩壇の裾野を広げていた証しとなっているといえる。
しかし、投稿欄としての「琉球詩壇」は一九九四年に中断、山之口貘賞受賞者の詩をリレー形式で掲載するものに体質を変えて現在にいたっている。すでに一九八〇年代後半には既存の詩人らの詩を毎週一篇ずつ載せるようなものになっており、応募数の減少によるものか、それ以降は公募の体質を維持できていないように見受けられる。
とまれ、詩一編単位で詩人の評を得られ、月一回の連載だった「琉球詩壇」は、応募基準を満たすのに資金や手間がかからず、結果が早くわかるため気軽に何度もチャレンジでき、効果的に詩壇の内と外との橋渡しとなれていたと考えられる。実際、開始後しばらくは掲載者に様々な名前が見られ、広く身近な詩壇への登竜門としての機能を果たしていて、県内詩壇における「琉球詩壇」の新人発掘・育成に担った役割は非常に大きい。

②県外郷土紙の詩投稿欄

 県内にはここ一〇年近く新聞紙上における詩の投稿欄は存在していないわけだが、県外はどうであろうか。
 他県のローカル紙における詩の投稿欄は、三〇道府県について調べた結果、二〇〇二年八月現在、「東奥日報」(青森県・選者は冬山純)、「山形新聞」(山形県・芝春也)、「茨城新聞」(茨城県・星野徹)、「下野新聞」(群馬県・篠崎勝己・小林猛雄)、「埼玉新聞」(埼玉県・槇皓志)、「北国新聞」(石川県)、「山梨日日新聞」(山梨県・笠井忠文・志村崇・いいだかずひこ)、「静岡新聞」(静岡県・吉野弘)、「神戸新聞」(兵庫県・安永稔和)、「日本海新聞」(鳥取県・渡部兼直)、「中国新聞」(広島県・北川透)、「四国新聞」(香川県・八坂俊生)、「愛媛新聞」(愛媛県・長谷川龍生)、「徳島新聞」(徳島県・鈴木漠)、「高知新聞」(高知県・小松弘愛)、「佐賀新聞」(佐賀県・堤盛恒)、「大分合同新聞」(大分県・首藤三郎)、「宮崎日日新聞」(宮崎県・南邦和)の一八紙が連載しており、その殆どは長谷川龍生(「愛媛新聞」内「愛媛詩壇」)や北川透(「中国新聞」内「中国詩壇」)、吉野弘(「静岡新聞」内「読者文芸」「詩」)など、全国区で活躍する古株詩人を選者に迎え、月一回もしくは週一回のペースで行われている。掲載量は月一篇というのから週五篇というところまで様々で、選評の字数も全く付されていないところから掲載作一篇につき三〇〇字というところまでまちまちだが、掲載者に偏りも見られず、その一八紙に関しては応募数に困っている様子は見受けられなかった。そのほか文化面におけるいわゆる「詩壇」ではないが、若者や小中学生向けの投稿欄で詩を受け付けているものも三紙(「長崎新聞」と「毎日新聞西部版」。「愛媛新聞」は両方連載)あり、それらを合計すると三〇紙中二〇紙、六七%が読者からの詩の投稿を受け付けていることになる。これは新聞紙上における詩投稿欄の連載が全国標準であるといって過言でない割合ではなかろうか。さらに、それらで掲載された詩は実に総数一四二篇にのぼり、全国でひと月にこれだけの量の新人の詩が陽の目を見ている中で、沖縄では毎月一篇も陽の目を見ない状況が一〇年近く続いているのだ。

③『新沖縄文学』(初期)の「詩」欄

 商業誌における投稿欄というのは、流通経路が充実しているために比較的応募者数に困ることはないと思われる。『ユリイカ』や『詩と思想』、『詩学』など、読者投稿欄を長年継続している商業詩誌は多い。それらは全国誌であることもあって、月間で連載しても応募数は多いようだ。かつては沖縄にも独自の雑誌が存在し、詩の投稿欄も連載していた。
『新沖縄文学』(沖縄タイムス社)は一九六六年に創刊され、詩や小説、俳句、短歌、論文などを掲載、毎号沖縄の情況に関する特集を設定して対談などを掲載し、季刊で一九九一年まで発行され、二十年近く沖縄の文壇、論壇の活性化の役割を担った。詩壇への影響力も同様に強く、創刊号からしばらくのあいだ「詩」のコーナーにおいて投稿を受け付けていた。毎季五~一〇篇ほどの作品を掲載し、選者は「珊瑚礁グループ」で終戦直後の沖縄詩壇を支えた一人、池田和で、のちに同じ「珊瑚礁グループ」で活動した大湾雅常となり、戦前から詩歴のある牧港篤三も数回務めたようである。二七号からは掲載が一人か二人になり、二八号からは「選評」の欄が掲載されなくなったことからみるに、以後は公募でなく依頼原稿であることが推測され、投稿を受け付けていたのは二六号か二七号までと考えられる。二七号までと仮定するとそのほぼ七年間のうちに四一人、実に一八〇篇の詩を掲載している。掲載回数が多いのは、よしむらともさだの一七回を筆頭に、仲地裕子の一四回、仲程昌徳の一三回、水納昭(水納あきら)の九回、名嘉座元司の七回、勝連森(伊良波盛雄)・川瀬信(川満信一)の六回と続く。掲載作品数で見るなら、仲程昌徳の二三篇が最多で、次いでよしむらともさだと仲地裕子の一九篇、川瀬信の一三篇と続く。また、のちに山之口貘賞を受賞することになる名前もいくつか見受けられる。伊良波盛雄が勝連森の名前で六回掲載され、山口恒治も五回、大湾雅常四回、勝連敏男二回、勝連繁男二回、宮城英定一回というぐあい。大湾はこの時期においては最早新人とはいえないが、貘賞を受賞することになる彼ら以外にも、以後多くの詩集を出した水納あきらや泉見亨、名護宏英、以後『潮流詩派』で活動することになる神谷毅や宮城松隆など、詩集発行や同人誌での作品発表など継続的な詩活動をすることになる数多くの新人を発掘した。
 また、「詩」の欄以外にも「同人雑誌評」の欄が公的な批評行為としてあった。これは新人発掘という趣旨のものではないが、大学文芸サークルである沖縄国際大学近代小説研究会の発行する『炎天』が幾度か取り上げられ、叩かれたり、好意的に評されたりしている。たとえば八三号(一九九〇年)では『炎天』第一〇号の中から詩をはじめ短歌や短編、評論が取り上げられ、丁寧に好意的に評されている。同人誌を評価するという趣旨のコーナーでも、学生同人誌が取り上げられることがあれば、間接的にせよ新人に対し公的な客観性のある批評が行われることになる。現在「沖縄タイムス」紙上で月一回のペースで連載されている「詩時評」で沖縄国際大学文芸部の『沖国大文学』が発行の度に取り上げられているのと同様に、新人に作品に光を当てることになる。その点でも『新沖縄文学』が詩壇を活性化する機能を果たしていたということができる。

第一章のまとめ

 「琉球詩壇」や『新沖縄文学』の「詩」欄において見出された詩人は、山之口貘賞を受賞する者や、同人を拠点に継続的に詩作する者、多くの詩集を出した者など、現在まで活発に活動する五〇代~六〇代の県内詩壇の中核をなす詩人たちである。彼らは皆それらが公募の体質を維持した限られた期間内に堰を切ったように登場している。その背景には『琉大文学』などの学生同人が活発だった時代状況が大きく作用しているだろうが、どちらにせよ公的な場所で客観的な批評行為に晒されることが彼らにもたらした意味は大きいと考える。即ち、客観的にならざるを得ない公的な場所での他者の評価が、同人誌を発行して表現していた彼らの後押しをし、以後の継続的な詩活動や詩集発行に繋がったと考えることができるのではないか。
 しかし『新沖縄文学』の「詩」欄が一九七二年に投稿の募集を中断、「琉球詩壇」も一九九四年に中断した。新聞紙上での投稿欄が継続されている他県と違い、新たな書き手を見出し、後押ししていくシステムは失われた。これが、序論で述べた県内詩壇高齢化の原因の一つであると考える。
 現在は新人発掘を目的としたシステムは皆無となったわけだが、「沖縄タイムス」紙上で月一回の周期で連載されている「詩時評」が、沖縄国際大学文芸部の『沖国大文学』を取り上げ、評していることが間接的にせよ新人への批評行為となっている。しかしそれは大学文芸サークルが機関誌を発行して初めて評される可能性が発生するのであり、しかもその可能性の内にあるのは機関誌に載っている作品のみであって、さらに評されるかどうかは評者の恣意性に依拠するところが大きく、とりあげられなければそれまでなのであって、新人が公的客観的な評を得るにはかなり遠回りな間接的システムといわざるを得ない。新人発掘を趣旨とするコーナーではないのだから当然のことだが、やはり新人発掘を目的とした投稿欄などのコーナーがなければ、詩壇の外側で詩を書く若い世代に門戸を開くことは容易でない。


第二章
『LyricJungle』と『沖国大文学』
 ―新人発掘における同人詩誌の可能性―

同人詩誌における新人発掘は、詩誌が先述の新聞の例のように投稿欄を設けるか、新人が集まって同人を組織するかの二つのタイプに分けられると考えられる。

① 登竜門としての詩誌 ――― 一般同人詩誌における投稿欄

前者のほう、詩誌で投稿欄を設けることに関しては、県内同人詩誌においてはそういった活動をしている同人は見受けられない。詩の雑誌における同人誌と商業誌の境目というのは曖昧なものだが、県内書店には並ばないような流通経路の限られたものを同人詩誌とみなしてあげるとするなら、県外には『抒情文芸』(抒情文芸刊行会・東京都)や『Lyric Jungle』(りりじゃん社・大阪府)といった、投稿コーナーの充実した同人詩誌が存在する。『叙情文芸』は清水哲男が選者で、二〇〇二年夏号(第一〇三号)の場合は、選んだ二十六篇のうち八篇に対してそれぞれ二〇〇~五〇〇字という懇切丁寧な評が付されている。『LyricJungle』は「りりじゃん編集部」が選考した数編について、編集者らによる合評と併せて掲載するという形式。様々な意見が交錯して、批評の客観性を向上させることに成功していると思う。また、新人賞を設けて小説と併せて現代詩も全国公募している同人誌に『コスモス文学』(コスモス文学の会・長崎県)があり、小・中・高校生の児童・生徒を対象にした「交野が原賞」を主催し、詩作品を全国公募している『交野が原』(交野が原発行所・大阪府)もある。
一方、県内で詩活動をしている一般同人・個人誌をあげると、『KANA』(KANA同人)、『EKE』(EKEの会)、『脈』(脈発行所)、『南涛文学』(南涛文学会)、『地点』(地点同人)、『あらん』(あらん同人)、『らら』(東風平恵典)、『キジムナー通信』(孤松庵)、『パーマネントプレス』(おりおん舎)などである。
 それぞれに様々な個性、方向性を持って多様な活動を展開しているが、投稿欄など新人発掘のためのシステムを持ったものはない。詩壇の外側で詩を書く者たちにとって開かれた同人誌は県内に存在しないため、同人詩誌による新人発掘のもう一方の可能性、同人詩誌において投稿を受け付けるというのは、県内においては手付かずの状態である。

②新人による詩誌 ――― 学生同人誌

同人詩誌での新人発掘のもう一方の可能性、新人による同人の組織というのは、学生同人誌が該当する。卒業すれば繋がりこそあれ本格的には編集に参与しなくなる大学文芸サークルの学生同人は、組織が存続する限り大方十八歳~二十二歳程度の若手、即ち新人で構成され続けることになる。かつては『琉大文学』を興した新川明、川満信一、そしてそれを引き継いでいった清田政信、中里友豪や新城兵一などが、以後半世紀に渡り沖縄の詩壇を引っ張り、思想界、論壇にも発言力を持った者すらいた。彼らと、終戦直後に詩壇を組織した「珊瑚礁グループ」(あしみねえいいち等)が戦後沖縄の詩壇を構成した詩人たちなのだが、ではそれ以後はどうか。『琉大文学』休刊後、学生同人の活動は一気に衰退した。『琉大文学』と同時的には、沖縄大学には、以後『脈』を立ち上げ現在まで活発に活動する比嘉加津夫が中心となった(注四)『発想』(沖大文学研究会)、国際大学にはのちに全国区の同人誌『潮流詩派』で活動する神谷毅らの『ベロニカ』などの同人の活動があったが、復帰後に目を移すと、私が調べられた限りでは沖縄国際大学で一九八五年から十年間活動し、『炎天』を十六号まで発行した沖縄国際大学近代小説研究会と、琉球大学の学生らで組織されたと思われる『LUFF』の二つのみだ。『LUFF』には、桐野繁の詩集『すからむうしゅの夜』(ふらんす堂 二〇〇一年)の跋文で高良勉が〈琉球大学時代の桐野や高江洲公平、天願赤美たちの同人誌『LUFF』を贈られた〉と書いているように、現在『KANA』で活動する桐野繁がいたようである(注五)。琉球大学の〈文学部国文学専攻課程〉に所属した〈高江洲公平、天願赤美、国井洋〉の三人で創刊、二号で〈砂岡祥〉が加わった(注六)という。
『炎天』は、元は「沖縄青年文芸同好会」という沖縄国際大学の学生だった大石直樹が興した組織が立ち上げた「詩誌」であり、二号を発行して以来休刊状態に陥っていたそれを、照井裕が興した近代小説研究会が復刊というかたちで引き継いだもの。『炎天』には沖国大在学中に新沖縄文学賞を受賞する近代小説研究会創立者の照井裕がおり、「うらいちら」の筆名で詩集『いろはうた』を発行した浦田義和沖国大助教授(当時)もいた。『炎天』の場合、近代小説研究会というだけあって小説の方に力を入れていたらしく、卒業後も詩壇に影響力を持った詩人が現れたかどうか確認できなかったが、その活動自体は一〇年間で数多くの新人の詩に光を当ててきた。わたしはその半数の八冊しか入手できなかったため参考記録となるが、半数でも三一人が詩を発表し、六三篇の詩が陽の目を見たことになる。詳しくあげると二号が一〇篇、三号が八篇、四号が五篇、五号が七篇、六号が八篇、七号が六篇、十一号が一四篇、十六号が五篇の詩を掲載している。抒情にもたれかかった作品も多いが、視覚的な言語効果の実験ともいうべき詩篇や古典作品のパロディーなどもあって、発表した人数に比例して多様である。うらいちらは「うらさんのいろはうた」と題してのちに『いろはうた』に載録する詩篇を連載し、照井裕も詩を発表している。
『炎天』は一九九五年に十六号を発行して以来休刊状態に陥り、近代小説研究会は一九九八年ごろに廃部となる。しかし沖国大には、一九九九年になってその年の一年次により沖縄国際大学文芸部が創設された。沖国大文芸部は、二〇〇二年九月まで三年余りで『沖国大文学』を四号まで発行。その間二九人の作者が一八二作品を発表してきたが、詩に関してみると一一九篇、二二人が発表している。沖国大文芸部は『沖国大文学』の編集のみにとどまらず、ある程度詩作品のストックを抱えた部員の詩集の編纂にも取り組んでいる。まず第4代部長の松永朋哉が二〇〇二年一〇月、処女詩集『月夜の子守唄』を上梓。二〇〇三年一月には第二代部長を務めた伊波泰志も処女詩集『柱のない家』の発行を予定している。また、現在は沖縄の短大含め八大学中大学文芸サークルが発行する機関紙は『沖国大文学』一誌のみである。これは沖国大近小研の『炎天』の時も同様であり、〈現在の沖縄で大学の学生団体が発行する同人誌が本誌ただ一つというのは現実である〉(注七)と照井が記している。
 『琉大文学』以降の学生同人誌をまとめると『LUFF』『炎天』『沖国大文学』の三誌。大学文芸サークルは沖国大の近代小説研究会と文芸部。『LUFF』は県内の大手書店に販売を委託していたようだし、『炎天』は長期間継続して発行し『新沖縄文学』や『文学界』の「同人雑誌評」で取り上げられたことがある。『沖国大文学』も発行の度に地元紙で紹介され、沖縄タイムス連載の「詩時評」にも定期的に名前が登場している。それぞれは意欲的な活動を展開している。しかし『琉大文学』以後二十年以上という長い年月を鑑みた場合、目立った組織的活動をし、新人の詩が陽の目を見たのは、これら三誌だけでは、限られたものにすぎないといわざるを得ない。
では県内詩壇の若返りに大学文芸の復興が土台となる可能性はあるだろうか。
 現状としては、詩壇の外側で詩を書いている若い世代を取り込んでいるのは『沖国大文学』のみといわざるを得ない。それ以外の一般同人誌は投稿を受け付けていないため、同人と直接的なつながりがないと作品発表の場とはなっていないからだ。大学文芸サークルの新人発掘における可能性は『琉大文学』『炎天』など先述のとおりであり、沖国大文芸部のみならず今後県内の他の大学にも何らかの動きが起これば詩壇高齢化の現状は変わる可能性がある。
つまり、沖国大文芸部は学外からの投稿も受け付けているが、その告知は部数や販売(配布)経路の限られている『沖国大文学』や「偽パンダつうしん」など機関誌上で行われ、その方法も郵送か沖国大文芸部公式ホームページ上の「投稿掲示板」への書き込みの二種類と、読者層も投稿手段も限られている。即ち大学内での新人発掘以上に広がりをもたせるには大学の一サークルである文芸部には荷が重いのだ。実際学外部員となっているのは金沢学院大学のMVCH―29019と、県内では九条岬の一人しかいない。
各大学で文芸サークルの復興があれば県内詩壇の若返りは加速するだろうが、こればかりは若い書き手の他ジャンルへの流出など社会状況による要因が大きくかかわっていて、詩で組織を立ち上げようという気概を持った若者がはたして決起することがあるかどうか、それ以前にそんな若者がいるのかすらわからない状況では予測はつかない。むしろそういう若者を育て、見出していく投稿欄などのシステム作りのほうが先のように思える。

第二章のまとめ

 県内の詩の同人には詩壇の外側を意識し、投稿欄や賞などを設けて新人に対して働きかけるような活動をしている同人はない。県外でそのような活動をしている同人誌を見るに、県内の大手同人も可能ではあると思うのだが、方向性が違うようである。一方で学生同人は、『琉大文学』以降は活発でない。一九八〇年代には沖縄国際大学近代小説研究会の発行する『炎天』と琉球大学の学生らで組織された『LUFF』の二つとなり、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけては沖縄国際大学文芸部の発行する『沖国大文学』の一誌のみ。『沖国大文学』においても、沖国大内での新人発掘には適しているが、他大学を含めた県内の若い世代全体へのアピールは荷が重い。連鎖的に『発想』(沖縄大学文学研究会)や『ベロニカ』(国際大学)、『ぶんがく』(琉大文学研究会)などが台頭した『琉大文学』の時代とは状況が違う。現在の沖縄県内詩壇の中核をなす詩人たちの多くが学生闘争のなかから現れたのは事実だろうが、現在においては大学にはそれほどのエネルギーは渦巻いてはいない。それどころか沖国大近代小説研究会が部費と部室の提供を受けながら潰れたように、環境面では恵まれていてもサークルの存続自体は常に危ういという状況が以下の文からわかる。〈どんな無茶苦茶な映画を作っても、誰も文句を言わない、誰も批判しない、学園祭に間に合わせて、とにかく作品を作り発表する、それを機械的に繰り返す。(中略)坂を転がるように、楽しさの中で何の苦労もせず作品を作り続けていく。その体質が、いつしか、創作意欲を低下させ、映画のみならず、近小研全体の活動へも蔓延していったのである。〉(注八)これは、一九八七年に近小研に加入し〈映画班・アマチュアシネマ〉を結成した下地邦広の文であるが、他大学文芸部が存在しないために外部との交流もなく、内部でも批評行為が行われなくなった近代小説研究会の末期の様子である。現在の大学で同志を募り組織を運営するということ自体の困難さが表れている。現在の大学は資格を取りに来た者と遊びに来た者の集まりで、表現に駆り立てる内的欲求などあるはずもないし、ましてや連帯して闘争するなど午睡の夢、個人主義が吹きすさぶ荒廃した場所でしかない。それは大学に限ったことではなく時代状況によるものだろうが、とにかく一九六〇年代と同じように大学文芸の復興が詩壇の活性化の土台となる可能性は皆無である。
 それより先に第一章で考察したようなシステム面の整備が現実的対策であると考える。


第三章
山之口貘賞
 ―新人の登竜門としての賞の機能―

①特定の世代への偏り ―受賞者の高齢化

山之口貘賞は、一九七八年に創設された。その前年、「精神の貴族」と称された県出身の詩人山之口貘の功績を称え、那覇市内の与儀公園に二年半の募金活動で集まった資金で詩碑を建立し、その残りの資金を元に山之口貘記念会が発足。翌年から貘賞を主催し、琉球新報社が共催、南海日日新聞社が後援となっている。選考委員はあしみね・えいいちと知念榮喜、山本太郎の、初期はその三人で、のちに山本太郎が死去して犬塚尭に引き継ぎ、さらにのちに宋左近、そして現在(第二十一回から第二十五回)の吉増剛三となっている。あしみね・えいいちは第二十三回の選考を最後に辞し、花田英三に引き継いでいる。懸賞というのは、そのジャンルの外側に対しアピールする効果をもち、外部の人間、即ち新人をひきつける機能を本質的に持つ。山之口貘賞の場合はどうだろうか。
山之口貘賞受賞者が受賞前と後で詩集を出すペースに変化はあるのか。受賞後に詩集を出すまでにかかる年数を平均すると約三・三年となるため、今年度の第二十五回から四年前の二十二回までは参考に出来ないから省略するとして、第一回から第二十一回までの山之口貘賞の受賞者二四人のうち、受賞作以前に詩集を何冊発行していたかを平均すると約〇・七冊となり、処女詩集で受賞した者も六人いる。しかし受賞後には平均約二・一冊であり、岸本マチ子の六冊、伊良波盛雄の九冊など、それ以前よりも多く発行している者が殆どである。さらに、岸本マチ子は第十七回小熊秀雄賞と第十回地球賞、八重洋一郎は第三回小野十三郎賞を受賞するなど、全国区の賞を受賞した者もいる。即ち、賞を受賞した後は詩壇において詩集発行が容易くなる、全国区の賞を狙えるなど一段上の世界にデビューすることになるのであって、賞とは権威であり、話を通り易くするツールであると考えれば、詩歴の知られた七〇歳のベテランがあらためて評価されるよりも、無名の新人に発表の場を与える方がそのジャンル自体を活性化するには価値が大きいといえないか。山之口貘賞の場合はどうか。年齢を見てみる。まずこれまで二五回、三一人の受賞者を輩出している貘賞を人数で二分割し、前・後期に分けてみる。第十三回の大瀬孝和までを前期、第十四回の花田英三以降を後期と分割すると、前期の一六人の受賞時平均年齢は約四二・八歳、後期の十五人の受賞時平均年齢は約五五・九歳。さらに、全受賞者の受賞時平均年齢は約四九・一歳(注九)であり、それより低い者は前期一二人で後期三人、それより高い者は前期四人に対し後期一二人と全く逆転している。三〇代で受賞した八人は全て前期であり、対し六〇代で受賞した九人のうち八人は後期であるなど、受賞時年齢の高齢化が加速していることは言うまでもない。なぜか。手がかりとなりそうなデータに以下がある。第一回に一九三二年生まれの岸本マチ子が受賞し、その二二年後の第二十三回に同じ一九三〇年代生まれ(一九三八年)の宮城英定が受賞しているのだ。その例に限ったことではなく、貘賞が回を重ねるごとに、受賞者の平均年齢は一〇歳以上も上昇している、つまり常に近い世代の中から受賞者が出ている状態にあり、この二五年間で受賞した三一人のうち一九三〇年代生まれが八人、一九四〇年代生まれが一三人を数え(注一〇)、両者を合わせると全体の六七・八%を占める。その年代以外の応募者が選ばれないのはなぜなのか。即ち、以下のことが言えないか。第十回(一九八七年)受賞者の松原敏夫(三九歳)以来、四〇歳未満の受賞者が第二十二回(一九九九年)の宮城隆尋(一九歳)以外一人も出ていないのは、若い応募者の絶対数が少ないからではないだろうか。懸賞というのはジャンルの外側にアピールできる点で、新聞紙上での投稿欄や大学文芸サークルなどと同様に、新人の登竜門となりそのジャンルの裾野を広げる機能を基本的には持つ。しかし貘賞の場合はそうなっていないのはなぜか。投稿欄や大学文芸サークルと貘賞との違いはどこにあるのだろうか。

②「詩集」というハードル 
―山之口貘賞応募規定

 第二十五回までの貘受賞者三一名中、二二名(約七一%)が「琉球詩壇」あるいは『新沖縄文学』での掲載歴がある、または詩誌や同人誌に加わりそこを拠点に詩作を続けてきた者たちで、残りの九名(約二九%)がそのいずれにも名前が確認できなかったため、恐らく独自に詩作を続けてきたものと思われる。応募者でみてみると、一二八名のうち、四四名(約三四%)が先の三つに発表歴のある詩人であり、対し八名(約六%)が同人にも属さず、投稿欄への掲載もなく独自に詩集を編纂した者。しかし残り半分以上の七六名(約五九%)が同人への参加や投稿欄への掲載歴があるのか不明なので、参考記録とせざるをえない。
しかし、暫定的なものにせよその数字に表れていることは、独自に詩作を続けて詩集を編纂し貘賞へ応募する者よりも、投稿欄や同人などの詩作の拠点を持って、あるいは他人の評価という後押しを受けて詩集を編纂し応募へいたる者の方が圧倒的に多いということである。
 新人の心は揺らぎやすい。ジャンルの窓口で迷っている者を引き込むシステム足りうるには、投稿(応募)する側のリスクを小さくする必要がある。リスクというのは主に時間と資金である。「琉球詩壇」は月一回の連載であった。『新沖縄文学』は季刊で、年四回の発行。対して山之口貘賞は年一回。結果がわかるまでの時間、次回挑戦するまでの時間。このブランクの大きさが、応募者に持続性を要求し、新人にとっては高いハードルとなっている。さらに、貘賞の応募規定は〈前年五月一日から当年四月末日までに発行された詩集〉となっている。詩集を発行するには作品の量と資金を必要とする。ここで、いくらやる気があってもどうにもならないお金の問題が出てくる。現在は、マンガ同人誌や自分史発行などの流行により自費出版は低価格の時代を迎え、さらにパソコンの普及で編集・印刷などの本作りが自分でできるほど身近なものになりつつある。しかし、マンガ同人誌で好きなマンガのパロディでマンガや小説を書き、好きなミュージシャンの歌詞を真似て詩を書くなど、サブカルチャーの周辺で表現する若い世代は、同じ趣味を持つ同世代の人間と共同体を組織するためにアピールしているのであり、独創性を追及し普遍性を獲得するという表現行為の本質に迫る気など毛頭無いのだから、またはパロディーで築かれた彼らにとっては居心地のいい共同体内では独自性や普遍性が要求されないという点で、詩壇の内側にいるいわゆる「詩人」と呼ばれる人たちとは完全に異質の存在である。だからこそ投稿欄などの客観的な他人の評価という後押しがない限り、詩集を編纂して賞に応募するなどという発想自体出て来ないのだ。新人発掘という観点においては、詩集を募集するだけでは不充分であり、彼らをパロディーの共同体という混沌状況から引き出し、詩壇において自分にしか書けない詩を書いてもらうために、その窓口として投稿欄などのシステムがまず貘賞の先に必要であるのだ。

第三章のまとめ
 
山之口貘賞は元来新人賞の性格を持たない。しかし懸賞というのは本質的に可能性としての新人賞的機能を持つ。貘賞もそれを持ち合わせている可能性は否定できないとの思いから、上記の検証をしてみた。しかし結果は、「琉球詩壇」や『新沖縄文学』または『琉大文学』などとは違い、既存の詩人を一段上の全国区に引き上げるという機能を果たしていて、新人を詩壇に引き入れる機能は果たしていないということがわかった。その原因は、投稿欄と違って応募期間が長いことと〈詩集〉という規定があること、即ち時間面と資金面で新人にとってはリスクが大きすぎることと、先述の新聞紙上や雑誌などの投稿欄が無くなったために客観的な他人の評価という後押しが無いこと、この二つにより若手の詩集発行自体が滞っているために、若い応募者が少なく、受賞者が「琉球詩壇」等で見出された特定の世代に偏っているものと思われる。
 この場合も第二章で検証した同人誌の問題同様、山之口貘賞だけでは新人発掘のシステムたり得ず、その前に詩壇の外側で詩を書く層にとって身近な、投稿欄などのシステムがなければならないということがいえる。


(後編につづく)


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